論理的自己矛盾による自死意識

欝モードまたキタ――(゚∀゚)――!!いやー定期的にくるから困る。
自分の思考の流れがどうしても現在の自分とあるべき自分のギャップを断ち切れないとき、ひょいと自死意識が顔を出す。自分の存在がどうしても容認できない時、苛立ちや焦燥感を感じる。人間の思考というものは、脳がそう考えさせるようにプログラムされているのだろうか。
自分に足りないものが、何かということを再認識することは非常にストレスを強いる行為だ。正直自己逃避や正当化したくなる。自分をいったん自己否定することは、今もっている自分の意識や信条の否定を伴うものだからだ。それはゆるやかな改正であればまだ受け入れやすいが、急激に、しかも予期しない形で認識させられると、無力感にさいなまれる。
現在、さすがに解答不可能な謎はまだまだ山積みなわけで、そういった謎はある意味スルーして、自分なりに、「いかに生きるか」について答えを出していかなければならない。ヒントや手がかりが限られていては、範囲が絞られていないので回答は複数ありうるし、それをどれも、断定はできないが、否定もまたしきれない。いわゆる本能や理性とどう付き合っていくのかが利口なのか、正解があれば教えてもらいたいものである。手がかりを示すものは山ほどあれど、選択は結局、自分自身だ。それぞれの答えに長所もあれば、短所もある。
人間のどの欲求を満たすことによって幸せを感じられるのか、本能とはまた違う部分に本当のやるべきことがあるのか、それはわからないが、いつまでも答えを出さないままでほうってはおけず、何らかの形で答えを出さなければならない。時間がねー、もうちょっとまってくれればいいのに、なかなか待ってくれない。
時代は動き、周りは動いている中で、自分がどういう意識を持つべきかについて、世間や周りをちょっと見回せば、一応の解答は用意されている部分もあるが、それが自分の本能にフィットするかはまた別問題だ。その結果といってはなんだが、色々な人間がいる。そこはいわゆる進化論や多様性の話になってくるのだろうが、あんまり知らないしとりあえずそれはおいておく。
自分が否定されることは、明示的にせよ暗示的にせよ、自己の存在の危機である。世の中プライドの高い人や、左から右へ聞いてるフリしている人がゴマンといるが、それは要はその危機をやりすごしているわけである。なまじ真剣に聞いてしまうことで、かえって悩む。希望があるからこそ絶望も深くなるという、いわゆるギャップの深さの話ですね。
人がみな、本能に忠実に突き進むと、次は競争の問題が出てくる。生まれてきた瞬間から競争が始まると考えるとヤな気分にもなるが、生きていくためには避けられない話でもある。いかに勝つか、どのフィールドで戦うかは選べるが、競争は避けがたい。
むかし、中学生日記だったかな、ある4コマ漫画が印象に残って、今でも覚えている。勉強頑張りなさいよと叫ぶ教育ママの子供が、勉強せずに書いていた4コマだ。1コマ目には、中学受験をがんばっている自分とそれを応援する母親、2コマ目は大学受験、3コマ目には就職活動が書いており、最後のコマには天使がかいてあった。感じ方は人それぞれだが、私には、競争の行き着く先に、何かゴールがあるのかという皮肉を示しているように見えた。
自分が何をしたいか、ということが明確であってもなお、様々な目標や能力を持っている人に自分を否定され、打ちのめされることは多い。プラス思考で考えられるときは、それを力に変えることができるが、人間なかなか・・・・そう、思うべきふうに思えない。そして自己存在の危機に陥ったとき、ふっと頭をよぎるのが、自死意識である。ニヒリズム的思考に近い。
まあ、寝ちゃえばけっこう忘れるし、人に励まされたり、おいしいものを食べたりなど、満足感を得ることで解消したりすることがほとんどなんだけどね!若いうちは悩めというが、現代はそういうことが頭をよぎりやすい、生きづらい世の中なのか、それとも、そんなことを考え、あまつさえこんな所にその思いを書けるような、余裕のある世の中なのか・・・・今、この時代にしか生きていない私には比較できないが、ともあれ、これが現代である。